
©「蘇りの血」製作委員会
監督デビュー作『ポルノスター』。若者から絶大な支持を得た『青い春』、その年の映画賞を総なめにした『空中庭園』まで、その揺るぎない個性で日本のみならず世界でも新作を熱望される監督、豊田利晃。
4年ぶりとなる監督最新作は歌舞伎や浄瑠璃の演目にもなっている説話“小栗判官”をモチーフにした寓話の世界。『蘇生の湯』と伝えられるつぼ湯。その温泉につかって不治の病を治したという小栗判官の説話にインスピレーションを受け、あの世とこの世を往来する人間の「蘇り」の
物語が誕生した。『破壊』から『再生』というテーマを一貫して描いてきた豊田利晃。今作では更なる広がりを見せ、人間のもつ生命力の強さ、存在意義を雄弁にスクリーンに焼き付ける。(資料より)
名古屋では、センチュリーシネマ(栄)で、2009年12月19日(土)から公開しています。尚、映画の内容とかあらすじなどについては、公式サイトでご確認ください。
水滴、あるいは血が、蘇生の湯の水面を叩くところからこの物語は始まる。世界は、叩くことによって生まれ、死ぬ。その連続。それがこの映画最大の主張である。主人公である、オグリの生業は、按摩業である。”叩く”ことにより、生命力を蘇らせる(治療)。そんなオグリの対照的な存在として登場する”大王”。大王は、自分の病んだ体を癒すため、オグリを呼び寄せる。その業を気に入り、「ずっとここに居ろ」と強要するが、固辞されるや、毒を盛り、恐らくは首を刎ねて殺害してしまう。
大王が、魚の頭を叩き切っているシーンが印象的だ。何度もたたき、そして千切るように切っていく。切られてもなお、ピクピクと動き続ける魚の身を、笑みさえ浮かべながら叩き続ける。叩き続け、”死”へと導く。それらを食することにより、自らの身が再生する、と信じているのだろうか。
それにしても、いつの時代の話なのか。「人間が全世界を支配する以前の物語」...。パンフレットにはこう書かれている。この物語の元となっている「小栗判官」の伝説にならうなら、舞台は15世紀初頭ということになる。この物語の時代背景は定かには語られないが、大体そのあたりと考えて間違いないのではないか。
原生林のとげとげしさ。草の深さ。まだ人間が自然を完全には支配していない時代。この時代、自然は恐怖の対象であった。原生林は、命に満ち溢れているが、同じ量の死を含有している。
そして、刃物の鈍さと重さ。武士が刀を研ぎ澄ます時代のはるか昔、刃物は、物を”切る”ものではなく、”叩いて、千切る”ためのものであった。既にこの時代、”叩く”ことにより”死”へ導く手段は確立していた訳である。一方、”生”へ導く手段は確立していたのだろうか。
オグリが閻魔に語った「私にはやり残したことがある」という言葉。按摩という生業で、叩き、生命力を蘇らせる。それこそが、オグリのやり残したこと、だったのではないか。筆者は(勝手に)そう考えている。
もう1人登場する、テルテという少女の存在。この時代、女性が生きていくことは大変なことであっただろう。自由に生きる、などということはほとんど不可能だったのではないか。テルテも、権力者の下に庇護され、服従して生きていた。しかし、オグリに言われた「早く逃げろ」という言葉に従い、大王の元を離脱する。この時代、集団からの離脱は、そのまま死へとつながる行為であった。実際、テルテは、追ってきた大王によって殺害されてしまう。
この映画のテーマである「蘇る」という言葉は、この先にある。つまり、離脱し、死ぬ。しかしその後、オグリの手により蘇るのである。そこまで観て初めて、この物語の本質を理解したように思う。”ボーイ・ミーツ・ガール”全ての物語の原型、基本であるこの永遠のテーマ。この物語も、同じ骨格を持っていた。
「蘇る」とは、肉体の再生、を意味している。しかし、それだけでは片手落ちなのだ。生きるもの全て、死ぬ。この物語は、オグリやテルテが不死の存在になる、などということを語っている訳ではない。重要なのは、”次につなげていく”ということ。そのためには、オグリ1人だけでは意味をなさない。テルテが一緒に蘇ることにより、彼らは本当の意味で”出会った”。彼らの出会いが、次につながる種を生んでいく。生きて、死ぬ。それが連続することが重要なのだ。
大王は、不死の薬を欲する。しかし、それはかなわぬ夢だ。おそらく、閻魔にもそのような願望をかなえる術はない。閻魔がオグリ、テルテに許したのは、彼ら自身が、次の世代を”生む”ことであって、永遠の生、ではないだろう。
閻魔は言う。「現世は地獄やで」天国は永遠の世界。現世が地獄ならば、本来の地獄は、無の世界ということだろうか。
大王も、当然閻魔の前にたつのだろうが、彼はどうしたいと願うだろう。彼に天国や、まして蘇りが認められるとも思えないが。
ラストシーンは、冒頭と同じく、空から池にポツンと落ちてくる水滴あるいは血、である。何を表しているのか、興味深いところである。薬師の蘇り、というのも、面白いが...。
筆者としては、手を取り合った2人が、どこに行くのか。どのような”生”を生きるのか。それを、想像の中で楽しみたいと思う。
音楽について。この映画で当然のごとく重要なのが、音、である。全編、監督自身もメンバーとして名を連ねる、「TWIN TAIL」というバンドの音がなり続けている。このバンドは、元BLANKY JET CITYのドラマーであり、本映画の主役、オグリを演じる 中村達也によって結成された、ドラムとベース、そしてヴァイオリンという編成に、豊田による映像が加わったユニット(ライブ・シネマ・ユニットと呼称するそうだ)である。
TWIN TAILの音楽は、その大半が即興で作られているとのことだが、計算されていないビート感が、人間によって管理されていない自然の姿とマッチしている。中村達也の肉体と、そこから放たれる強烈なドラム音。命の息吹。
叩くというのは、生命の誕生。そして同時に、死、でもある。永遠ではなく、無でもない。だから、現世の象徴となり得る。
オグリの蘇りは、肉体の復活、を象徴している。蘇生の湯に使った餓鬼阿弥たるオグリの肉体が再び池面に現れた時、それは紛れもなく、肉体の復活、を叫んでいた。彼は叫び、何度も池面を手でたたきつける。肉体と魂の復活は、こうしてなされたのだ。
大地のリズムは、きっとこんな感じなのではないか。そう思わせる説得力を持っている。
個人的には、芸能山城組の「組曲 恐山」が頭の中に鳴り響いていた。※舞台が恐山だから、ではなく!不思議なことに、TWIN TAILの音楽(ドラムとベース、ヴァイオリン)の音が、それに重なり、軽いトリップ状態になった。
映画終了後、TWIN TAILのサウンドトラックを購入したいと思い、受付を探したが、見つけられなかった。タワーレコードでも、「販売終了」となっている。残念!どこかで見つけたら、買いたいな、と思う。
皆さんも是非、見に行ってほしい。
(高須健一)
蘇りの血:http://yomigaeri-movie.com/
センチュリーシネマサイト:http://www.eigaya.com/theater/century/index.html
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