石浦:信長の「天下布武」の「武」にはどんな意味があったのでしょうか?
童門:信長は稲葉山城を攻略して、美濃井ノ口の町を「岐阜」と改めました。これは古代中国の聖王といわれた、周の武王が拠点とした「岐山」にちなんでの改名です。武王は王道政治を行い続けたことで孔子や孟子にも讃えられた王様ですが、恐らく信長は、日本から戦さをなくし「あゆち」の風を吹かせることによって自分も武王のようになりたいと思っていたはずです。つまり、武王の理想を天下に広めようとして「天下布武」といったのでしょう。だから岐山にちなんで岐阜の名をつけた。「阜」というのは丘の意味です。信長の武王へのへりくだった気持が、山よりも低い丘にさせたということですね。
石浦:安土の由来と楽市楽座についてはどうでしょうか?
童門:後年、信長は琵琶湖畔に安土城を築いています。最近の学会では、「平安楽土」という言葉から安土とつけられたと言われています。この「あづち」も信長の命名ですが、ぼくはこれも「あゆち」からきているとみている。その意味で岐阜は全国に「あゆち」の風を吹かせるための第一次拠点であったわけです。実際、信長は230メートルの高所にあった稲葉山城に住まず、ふもとの岐阜の町に館をつくり役所にしていました。民衆のニーズをつかむためです。さらには楽市・楽座の開設。それまではパテント制度であったため、許可を取らないと売買できなかった。それを自由化したわけです。今でいう規制緩和、商業の自由化ですね。
石浦:信長は旧体制を破壊し、戦国時代を終わらせた。そして「あゆち」の豊かな風を全国に吹き渡らせた。秀吉はそれを受け継ぎ、家康が完成させたわけですね。
童門:そうですね。信長は尾張、美濃を中心に居城を移し、最後は安土城に落ちつき、秀吉は大阪を拠点としました。つまり関西地方に「あゆち」の風を吹き渡らせました。家康はといえば、関東を中心に、つまり江戸に出て「あゆち」の風を全国に広げようとしたわけです。みんな愛知県出身なのですが、それぞれ出て国を離れて居城を構えました。尾張の国に留まっていたら、だめだったでしょう。出て行ったから広がったのです。愛知県は尾張と三河の2つの国です。尾張の国はどちらかといえば、都会型ですね。新しいもの好きだった信長、秀吉を見ても明らかです。それにひきかえ三河出身の家康は田舎型です。政治の面でも田舎型の組織になっています。老中、家老、若年寄という役職がありますように、年長者を重んじる農村型の組織運営ですね。だから、「あゆち思想」は体感されていく中で生まれてきたものであって、頭で考えたものではない、風に吹かれて考えたものだと思いますよ。
石浦:その後、名古屋市の河村たかし市長の話になりました。童門さんは河村市長が武家の生まれだとは知らず、先祖は尾張藩の書物奉行であったことをお知らせしたところ、彼はもっと教養人であることをアピールすべきだと言われました。それにしても尾張というところは、3人の天下人を生み出した上、名君と謳われた上杉鷹山の師、尾張藩校の初代督学・細井平洲を生み出し、彼の説く思想がその後の明治維新の立役者、吉田松陰や西郷隆盛に影響を与えたことを考えあわせると、「あゆち思想」とは日本の指導者の精神的バックボーンを支えてきたといっても過言ではないでしょう。また、その上杉鷹山がJ・F・ケネディーの尊敬する政治家であったことを思うと、「あゆち思想」は世界に通じる指導理念になりうる可能性を秘めているように思います。(完)
(聞き手:石浦薫、写真:伊藤剛)
■童門冬二さんプロフィール
かつて東京都に勤め、都立大学事務長、広報室課長、企画関係部長、知事秘書、広報室長、企画調整局長、政策室長という重職を歴任したあと、1979年の退職後から作家活動に専念される。歴史上のリーダー像を描いた著書は現代の多くの経営者に読み継がれている。




















