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「あゆち」思想の源流を探る⑤ 「あゆち」の原風景-芸どころ名古屋でなく熱田
(2009年1月13日 09:11)

武家政治を開いた源頼朝をはじめ、戦国時代に終止符を打ち、天下泰平の世の中を築こうとした織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、さらに戦国武将、大名の7割が、この「あゆち」の風土から輩出されているというから驚きだ。学問、芸能は自らを高めるためのたしなみであり、武将は、死地におもむく際、能を舞い、また死に際して辞世の句を読むことを常とした。熱田の地には古くから奉納文化が根付いている。技能の成果を最高のものとして神前に捧げ祭ることによって日々、精進していこうとする文化だ。

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                                   1月11日熱田神宮の踏歌神事、神前での舞い

自分を磨くための芸ごと、お稽古ごととして出発したのが熱田の芸能であった。これはかつての武家の人たちだけではない。現代の一般庶民でも、たとえば主婦でありながら三味線の先生をしていたり、サラリーマンでも長唄の先生をしていたり、今も脈々とその伝統は受け継がれている。「芸どころ名古屋」と呼ばれるゆえんは、おそらくこのような文化風土を指していうのであろう。よく「芸どころ名古屋」といえば徳川宗春のころが引き合いに出されるが、せいぜいさかのぼって300~400年前。それ以前の名古屋といえば熱田の宮周辺しかなかった。熱田神宮は創祀1900年、奉納芸能の歴史のほうがはるかに古い。

数年前、バングラデシュから民族歌手が招かれて名古屋の一般家庭で歌を披露する機会を得た。十数人の観衆が集まり、彼女が歌いだす瞬間を待っていた。そのとき彼女が口を開いた。「神様はどちらにいますか?」 するとその家の主は彼女の背後の神棚を指差した。彼女はくるっと後ろ向きになり、観衆にお尻を向けて神棚に向かって歌い始めた。観衆は面食らった。私たちが久しく忘れていた文化だった。技能や芸能は、本来、神様に奉納するものであることを私たちは気づかされた。大衆に向かって歌うものでなく、神様に向かって歌うもの。「私の歌唱力はここまで上達しました。どうぞ聞いてください」といってうやうやしく歌うのだ。それを多くの人が見て感動する。熱田の芸能はそのような性質のものだった。それはあくまでも芝居小屋での芸能でなく、自己を高めるたしなみ、自己研鑽の芸能だということ。熱田では今でも芸能協会という言葉が残っているそうだ。

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                                            尾張浜主の歌碑

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                               説明文(歌碑は高座結御子神社にある)

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                                   高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)

「続日本後紀」にこんなエピソードがある。時の天皇が熱田神宮に行幸されたとき、尾張の浜主が舞楽を舞ってお迎えした。そのとき浜主の年齢は113歳だったという。はじめはあのような翁(おきな)では立つこともできないだろうと語り合っていたが、いざ舞い始めると、まるで少年のように軽やかに舞う姿に驚くだけでなく、感動させられたと記述が残っている。まさに神人合一の境地だったのだろう。神様をフィルターとして演舞者と観客が一体になる。主と客、この相対するものを一つに融合するというと、またしても「あゆち」思想が思い起こされてくる。

「あゆち」の風は、海の向こうから吹き渡ってくる。それは常世(とこよ)の世界、あの世から吹いてくる風のことでもある。私たちが死んだら肉体はあの世に持って帰れない。もって帰れるのは魂だけ。だったら生きている間に自分を磨くことだ。そういうことを「あゆち」の風が伝えているようだ。

(NPO日本文化を守る会・武家の里 石浦薫)

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